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現代。

鹿児島市・みなみホールで開催された、九州・沖縄作曲家協会主催のコンサート、
第33回九州・沖縄現代音楽祭~韓国・ヨンナム作曲家協会会員を迎えて~』に伺いました。

1980年の第1回公演から、九州・沖縄各県で年に1回開催されている本公演。
鹿児島での開催は、2005年以来とのこと。
今回は、8名の会員、
池田圭佑、石田匡志、上野未致子、衛藤恵子、久保禎、齊藤武、二宮毅、東大円の各氏と、
物故会員の福島雄次郎、齊藤正浩の両氏、
韓国・ヨンナム作曲家協会より招待されたホン・セヨン、イ・ホウォンの両氏、
以上12名の作品が、鹿児島在住の演奏家などによって上演されました。

最も印象的だったのは、最後に演奏された久保禎先生の《二つの幻影》でした。
「鹿児島おはら節による幻影」と「鹿児島はんや節による幻影」という、
鹿児島を代表する民謡を素材とした2曲から成る本作。
前者は、鹿児島を代表する5名の作曲家による南日本音楽コンクール60回記念コンサート委嘱作品、
祝典組曲《かごしま》の序曲として2011年に初演されたもの。
後者は、今回が初披露となりました。

演奏は、フルート:木村紀子さん、オーボエ:片倉聖さん、クラリネット:平山美津代さん、
ホルン:山下美喜子さん、ファゴット:久保由香理さんから成る「ビシュ・クインテット」と、
久保先生ご本人のピアノ、という6人編成。

「各曲ともに、変形・加工のフィルターを通された旋律の断片群が非線形的時空を自由にたゆたう」
と紹介されていますが、原曲を知っていれば、聴き取ること自体は難しくないだろうと思います。
それよりも、民謡が交錯する向こうにどのような幻影、ヴィジョンが見えるのか、ということが重要でしょう。

先生がよく仰る「地域性」「同時代性」といった言葉。
昨今、ある地域に住んでいれば、その風土に強く影響されるという訳ではないだろうと思いますが、
本作も、鹿児島の民謡を引用したことだけでは、今の鹿児島に根差した音楽とは呼べないのでしょう。
此処で生活する中で感じる空気、時間の流れ、視界の中の生き物や建物との距離、
ネットを通じての親近感、地域内外の問題への関心、etc...
これらが如何に反映された音楽であるかが問われているのだろうと思いますし、
本作ではそれが実現されていると私は感じました。
聴いた人の数だけ「地域性」も「同時代性」も存在する筈なのですが、それが本当に実現出来るのか。
その結果を、作品の「豊かさ」と呼べるかも知れません。

また、プログラムノートには、
「フーガの技法」と雅楽の「退吹(おめりぶき)」に基づいた精神だと書かれています。
特に2曲目では、一つの旋律を管楽器が模倣していく中で、ほぼユニゾンの旋律が出現するのですが、
ヘテロフォニックな「ずれ」も相まって、まるで篳篥のように聴こえるのです。
西洋の一般的な楽器を用いて、作曲者オリジナルの音色を生み出すことに成功しています。
正直な所、ホールの響きのせいか、各楽器の混ざらなさが殆どの作品で気になったのですが、
この場面においては、各楽器の原色のような音が聴き取れることによる音色の太さが生まれて、
ホールの特性が、寧ろ効果的に活かされていたようです。
大胆で直截的な表現を選択するという先生の姿勢にも、感銘を受けました。

余談ですが、民謡「鹿児島おはら節」の引用というのは、
ご当地モノは作曲したくないと云い張る私にとっても、大変興味深い内容なのです。

もう一曲取り上げたいのは、やはり、池田圭佑さんの《高嶺の花》でしょう。
桐めぐみさん、濱田貴志さんという二人のギタリストのために作曲され、今回が初演となった本作。
プログラムには明記されていませんが、英語の副題は〈Eat your heart out!!〉です。

「九州の過激派」という異名を取る池田さんですが、
その割には、本作は大人しく、まとまった作品に聴こえるかも知れません。
でも、桐・濱田両氏を想定した「当て書き」であることを考えると、
彼らが得意とするレパートリーの延長線上で、
過激な作風がきっと展開されているのだろう、と勘繰ってしまうのです。
平凡や冗長といった感想を持ってしまった箇所に意味があるのではないか。
このような考えを捨て切れない印象を与えるのが、池田圭佑という作曲家の存在感なのでしょう。

スコアも細かく書き込まれていて、演奏する際の心情まで指定されています。
二人が会話する訳ではなく、会話するとしても本心は別にあるかのような、
お互いのその本心こそが奏されているために、二重奏が成立していないかのような印象を与える。
視覚的には二重奏に他ならないのに、聴覚的には何処か違和感を覚えるという奇妙な体験です。
なので、所々に挿入されるユニゾンが効果的に聴こえます。

また、彼は「らしい」フレーズを作ることが出来ます(これが私には出来ない、、)
例えば、ヤマハの音楽教室で習うような初歩的な内容が突然現れるピアノ曲もあります。
今回も、きっと何処かにありそうな民族的なかわいらしいフレーズが登場しては、
カットアウトされて、全く異なるフレーズに突然移るような箇所が幾つかありました。
上記の内容と重複しますが、引用の手法においては使い古されたような展開ですが、
それでも、彼が採用した途端に、何か特別な意図がありそうに聴こえてしまいます。

お互いがディレイのように聴こえる箇所など、いわゆる作曲上の巧さも確認出来るのですが、
それよりも、桐・濱田両氏という表現対象、素材を活かし切った所に本作の魅力があると考えました。
もし再演が実現される場合には、ギターの魅力をより引き出せる、
彼らがホームとしている会場で、改めて演奏して頂きたいものです。

現代音楽からの脱却を目指す作曲家も少なくなく、
しかし、その実際は、旧来的な現代音楽の焼き直し、劣化コピーであることも少なくありません。
特に、調性や感動を謳うような作品で未練がましく不協和音が鳴ると、怒り心頭状態になります。
(耳馴染みの良いコードが単に羅列されているだけの、調性の魅力を活かし切れていない作品とか)
「現代音楽」は過去のムーブメントでは決してない。
人間の営みにとっての挑戦なのだと、私は考えております。
そのような難題と真正面から向き合っているであろう久保先生、池田さんの作品に、
私は、背筋が伸びる思いを致しました。

来年は何県で開催されるのでしょうか。
更に実りある公演となりますことを、お祈り申し上げます。
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